平安時代(へいあんじだい)
その3 1000年頃~国風文化(こくふうぶんか)
遣唐使派遣時代は、日本の文化は大陸(中国、朝鮮)からの影響が濃かったが、菅原道真(すが
わら の みちざね)が提案した遣唐使廃止でその影響が薄れ、日本独自の 国風文化が花開いた。
それまで文字は漢字のみであったが、さらに書きやすい様に”かな文字”が誕生する。
安と言う字が”あ”になったり、波と言う字が”は”と言う風に簡単になります。
あまり教養の無かった女性でも文字が書けるようになりました。
当時の貴族は自分の娘を天皇や皇族に嫁がせる為、教養を付けさせようと家庭教師を雇った。
その代表的な女性が
清少納言(せいしょうなごん)
と
紫式部(むらさきしきぶ)である。
2人は一条天皇のきさき(平安時代は一夫多妻制で複数の妻がいた)の家庭教師として宮中
に入り、その中でそれぞれ代表作を執筆、発表する。
清少納言は、皇后・定子(ていし)に使えて「枕草子」を1001年頃書き上げる。
紫式部は、皇后・彰子(しょうし)に仕えて「源氏物語」を1008年頃は発表。
日本史×漫才「ヒストリーズ・ジャパン」(平安時代編)
紫式部と清少納言
天皇の推移
と
紫式部(むらさきしきぶ)である。
2人は一条天皇のきさき(平安時代は一夫多妻制で複数の妻がいた)の家庭教師として宮中
に入り、その中でそれぞれ代表作を執筆、発表する。
清少納言は、皇后・定子(ていし)に使えて「枕草子」を1001年頃書き上げる。
紫式部は、皇后・彰子(しょうし)に仕えて「源氏物語」を1008年頃は発表。
日本史×漫才「ヒストリーズ・ジャパン」(平安時代編)
紫式部と清少納言
天皇の推移
第59代 宇多天皇(うだてんのう)(在位期間887~897) 遣唐使を廃止する。
第60代 醍醐天皇(だいごてんのう)(897~930)古今和歌集を作らせる
第61代 朱雀天皇(すざくてんのう)(930~946)
第62代 村上天皇(むらかみてんのう)(946~967)
第63代 冷泉天皇(れいぜいてんのう)(967~969)
第64代 円融天皇(えんゆうてんのう)(969~984)
第65代 花山天皇(かざんてんのう)(984~986)
第66代 一条天皇(いちじょう てんのう)(986~1011)妻である定子に清少納言、彰子に紫式
部が教育係として仕える。
第67代 三条天皇(さんじょうてんのう)(1011~1016)妻は藤原道長の次女、妍子(けんし)
第68代 後一条天皇(ごいちじょうてんのう)(1016~1036)藤原道長の三女、威子(いし)
第60代 醍醐天皇(だいごてんのう)(897~930)古今和歌集を作らせる
第61代 朱雀天皇(すざくてんのう)(930~946)
第62代 村上天皇(むらかみてんのう)(946~967)
第63代 冷泉天皇(れいぜいてんのう)(967~969)
第64代 円融天皇(えんゆうてんのう)(969~984)
第65代 花山天皇(かざんてんのう)(984~986)
第66代 一条天皇(いちじょう てんのう)(986~1011)妻である定子に清少納言、彰子に紫式
部が教育係として仕える。
第67代 三条天皇(さんじょうてんのう)(1011~1016)妻は藤原道長の次女、妍子(けんし)
第68代 後一条天皇(ごいちじょうてんのう)(1016~1036)藤原道長の三女、威子(いし)
古今和歌集 (こきんわかしゅう)
日本ではじめて天皇の命令(醍醐天皇)によってつくられた和歌集。全二十巻、約1100首の
和歌が、テーマごとに収められています。
和歌が、テーマごとに収められています。
紀貫之(きのつらゆき)や凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)などが和歌を選定。
912頃完成したと言われている。
寝殿造(しんでんづくり)
平安時代に造られた平安貴族の住宅の様式の事。寝殿という建物を中心に東西南北に建物を
配置し、それらを通路で結んでいます。
残念ながら現存している建物は無いらしいですが、広島の厳島神社は寝殿造りの様式を取り
入れたと言われればイメージ出来ると思います。
また京都御所も寝殿造りの建物として有名です。
テストに出る問題パターン
貴族の( )の屋敷が作られ、、、
貴族の住居の建築様式を何と言いますか?
藤原氏が住んでいた東三条殿の模型
広い寝殿内の障子や屏風等の仕切りには大和絵(やまと絵)が描かれており、日本的な絵画
が国風文化として発達した。
大和絵をネットで検索すると(やまと絵)とひらがな表記が多いが、テストでは大和は漢字
で書いた方が無難?
障子に大和絵が描かれている寝殿造りの内部。
なんて優雅で雅な時代だったんでしょう。
http://www.jia-tokai.org/archive/sibu/architect/2005/02/washi.htm
平安時代には最澄と空海の僧により新しい仏教が伝えられたが、シャカが死んでから一定
の年月がたつと仏教がすたれ、疫病やききん等の災難が続くと伝えられる仏教の教えを末
法思想(まっぽうしそう)と言い、その考えが流行した。
人々の心に不安な気持ちが高まったため、念仏を唱えて阿弥陀如来にすがり、死後に極楽浄土
へ生まれ変わることを願う、浄土信仰が起こった。
11世紀には浄土信仰が地方の人々にも広まり、阿弥陀如来の像や、それをおさめるための阿弥
陀堂が、さかんにつくられるようになった。
宇治(京都)の平等院鳳凰堂は、このころの代表的な阿弥陀堂だ。
浄土信仰(じょうどしんんこう)は必ず定期テストに出て入試問題にも出ます。
問題例
Q 死後、あの世で人々が極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰は?
Q 阿弥陀仏にすがり、死後極楽浄土に生まれ変わることを願う信仰は?
後、わずらわしい事に阿弥陀信仰(あみだしんこう)と書いてある教科書もあります。
平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)はほぼ確実に高校入試問題にでるでしょう。
問題例
Q 藤原頼道が建てた阿弥陀如来を本尊とする建物は?
藤原頼道(よりみち)が建てた、、、パターンの出題例が多いです。
平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)
〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116
平安時代の後期、1052年に宇治関白藤原頼道(よりみち)が、父道長の別荘を寺院に改め平等院
となります。その中にある建物が鳳凰が羽を広げたような形状であることと屋上に銅製の鳳凰が
あるところから,後世鳳凰堂と呼ばれた。
世界遺産、国宝、そして10円玉に描かれていると言う平安時代、、いや日本の歴史上でもとても
重要な建物です。
世紀末思想に似た末法思想の流行で、未来の望みを失った平安時代後期の人々が、極楽浄土を再現
した建物と言われるだけあって、日本の美が集結したような場所である。
平等院鳳凰堂近くの安いホテル
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