平安時代(へいあんじだい)

その2       866年頃~

摂関政治(せっかんせいじ)   藤原氏の台頭


平安時代初期は、天皇が政治の中心だった。

しかし貴族たちの間で、地位や位をめぐって争いや駆け引きが繰り広げられていました。

その中で、嵯峨天皇に信頼された藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が力を持っていきます。

あの大化の改新を成功させた中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫である。 


藤原氏は“婚姻戦略”で天皇家と親戚関係を結んでいくことで、地位を不動のものにしていきます。

 

天皇の推移
第50代 桓武天皇(かんむてんのう)(781~806)平安京を作る。

第51代 平城天皇(へいぜいてんのう)(806~809)

第52代 嵯峨天皇(さがてんのう) (809~823)

第53代 淳和天皇(じゅんなてんのう)(823~833)

第54代 仁明天皇(にんみょうてんのう)(833~850)藤原冬嗣の娘、順子が嫁ぐ。

第55代 文徳天皇(もんとくてんのう) (850~858)仁明天皇の第一皇子

第56代 清和天皇(せいわてんのう)(858~876)わずか9歳で即位。藤原良房が摂政に。

第57代 陽成天皇(ようぜいてんのう)(876~884)

第58代 光孝天皇(こうこうてんのう)(884~887)藤原基経が関白に。

第59代 宇多天皇(うだてんのう)(887~897) 遣唐使を廃止する。 





冬嗣は、娘の順子を後に第54代仁明(にんみょう)天皇となる正良(まさら)親王へ嫁がせます。

2人の間に生まれた子は、第55代文徳(もんとく)天皇となります。

さらに冬嗣の息子の良房(よしふさ)は娘を第55代文徳天皇に嫁がせると、その息子はわずか

9歳で天皇に就き、清和(せいわ)天皇となります。

天皇の祖父となった良房は、幼い天皇に代わって”摂政”として政治の実権を握ります。

そして866年、藤原氏の力が強固になる大事件が起こります。

平安京の応天門が燃え、藤原氏は、ライバルであった 大納言 伴善男(とものよしお)が、左大臣

の源信(みなもとのまこと)の失脚を狙って炎上させたという理由で犯人にしたて、伴善男を都か

ら追放した。

これを応天門の変(おうてんもんおへん)と言います。

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この事件以降、当時17歳だった56代清和天皇は、祖父の藤原良房に「天下の政を摂行せよ」と

詔を出す。  これにより、藤原氏が天皇以上の力を持つ事になる。

”摂政”や”関白”といった重要な位は、藤原氏以前は 皇族だけが就いたが、自分の身内を皇族

に送り込み血縁関係を結ぶことによって、その地位迄上り詰めた。

これを

摂関政治(せっかんせいじ) 

と言います。

摂政の ”摂”と関白の”関”を合体させ摂関と言う。



※摂関政治を解かりやすく解説した動画※
 







遣唐使廃止

唐(昔の中国)の進んだ技術を学ぶために、危険な航海をしながらも送り続けられていた遣唐使

だが、 唐は8世紀後半に内乱によって国力が衰え、907年に滅亡しました。


唐の次に907年 (そう)が統一


朝鮮半島では高麗(こうらい)が新羅(しらぎ)滅ぼす。


こうした背景もあって、当時の右大臣、菅原道真(すがわらのみちざね)が 第59代宇多天皇(う

だてんのう)に提案し 894年ついに遣唐使を廃止します。


この遣唐使廃止の年はテストにでますよ~!!



語呂合わせ
白紙(894)に戻す遣唐使




あと遣隋使が始まった年とセットで覚える語呂合わせもあります。


蒸されると吐くよ遣唐使船(630ると894遣唐使船)


おっさんだらけの遣唐使船で船内は蒸し風呂状態になり吐き気がする 、、とイメージ。


 
武士の登場


この時代、朝廷の支配も地方迄には行きわたらず、各地で度々反乱が起こります。

その鎮圧のため、朝廷は中央の下級貴族や地方の有力者を派遣。

彼らは反乱を鎮圧した後、領主となり、私兵を蓄え「朝廷の武力」としての武士が誕生します。


一方、無法地帯の地方では、農民が度々 盗賊に襲われ、自己防衛の為武装し、それが武士

となりました。


 

平将門の乱(たいらのまさかどのらん)
藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)


武士として歴史に初めて登場するのは、桓武天皇の末裔である平将門(たいらのまさかど)です。
 
935年下総国(しもうさのくに)「現在の茨城県」を支配していましが、朝廷の出先機関である

国府を次々と遅い、東国から次々に国司を追い出します。
 
そして939年自ら新皇(しんのう)と名乗り、天皇に代わって新しい支配者になろうとしました。

 
そして940年、朝廷軍に攻められ平貞盛、藤原秀郷らに討たれた。

 
同じ頃、朝廷役人系の武士である藤原純友(ふじわらのすみとも)も淡路の国や大宰府を攻め

たが朝廷軍に敗れた。
 
この2人の武士による反乱をまとめて承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)という。



摂政(せっしょう)藤原道長(ふじわらのみちなが)


摂関政治でその地位を固めてきた藤原氏。

その中でも黄金時代を築いたのが藤原道長だ。

◆藤原道長の娘
長女 彰子(しょうし)     66代一条天皇と結婚

次女 妍子(けんし)    67代三条天皇と結婚

三女 威子(いし)     68代後一条天皇と結婚(後一条天皇は一条天皇と彰子の子)