奈良時代(ならじだい)


710年 ~ 794年

この時代の日本の推定人口 約577万人

年号語呂合わせ
なんと(710)見事な平城京


 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の息子、藤原不比等(ふじわらのふひと)が元明天皇にお願いし

て710年、平城京(奈良県)に都を移してもらう。

奈良時代の始まりである。 




ちなみに天皇の継承推移は、、、

天武天皇(大海人皇子)死後、妻である持統天皇(じとうてんのう)が第41代天皇となり奈良県

「藤原京」と言う都を作った。(在位期間690年~697年)

第42代文武天皇(もんむてんのう) (在位期間697年~707年)在位中大宝律令完成

第43代元明天皇(げんめいてんのう) (在位期間707年~715年)



平城京は唐の都,
(ちょうあん)を模して造られ、東西4.3Km、南北4.7Kmの規模を誇り、

巾70mの朱雀大路(すざくおおじ)を中心に道路は碁盤の目の様に整備されました。



平城京の復元模型

250px-Daidairi_of_Heiankyo
 

現在でも立派な街並みですが、こんな街が1000年以上前に造られたとは驚き!!

車も無いのに幅70mの道路とは、、、、。

この巨大ジオラマは 奈良市役所の中央棟1階ロビーに展示してあります。




古事記・日本書紀・風土記


712年、朝廷の役人である 太安万侶(おお の やすまろ)は元明天皇に命じられて日本最初の

歴史書である「古事記(こじき」を完成させた。 


しかし、その内容は殆ど神話(創作話)で、日本列島の誕生から最初の天皇と言われている

神武天皇(じんむてんのう)が地上に降り立った所迄を描いている。 


さらに720年には中国人にも読めるようにすべて漢字で書かれ、それまでの史実をまとめ上げた

日本書紀(にほんしょき)」も舎人親王(とねりしんのう)の手で完成する。


他,朝廷が各地方の様子を知るため 風土記(ふどき)も書かれた。


※動画※わかる歴史(奈良時代)古事記と日本神話 






墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

年号語呂合わせ

期限は無しさ(743) 墾田永年私財法    なじみ(743)のある墾田永年私財法


半田収受法(はんでんしゅうじゅほう)によって国から公平に土地を分け与えられていましたが

(口分田)、奈良時代に入り人口が増えその土地が足らなくなってきました。

そこで723年、 新しく用水をつくって開墾(開拓)したものには3代に渡り土地を所有出来る

三世一身の法(さんぜいっしんのほう)が出来るが、思うように広まなかった。

そこでさらに20年後の743年に土地の所有期限を無くし、永久所有とした墾田永年私財法が発布

されます。

開墾できる面積は身分によって決まった為、財力のある貴族、寺院は多くの農民をかき集めて開

墾を進める。この貴族や寺院の所有地を荘園(しょうえん)と呼ぶ。



墾田永年私財法の歌。いい曲です。




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東大寺の大仏完成

天皇の推移

第43代元明天皇(げんめいてんのう) (在位期間707年~715年)平城京を作った人

第44代元正天皇(げんしょうてんのう) 元明天皇の長女(715年~724年)

第44代聖武天皇(しょうむ てんのう)  東大寺を作った。(724年~749年)


聖武天皇の時代になると災難続き(伝染病、大地震、大飢饉で食糧難、政治不信で反乱等)。

神にもすがる思いでさらに仏教を広めようと、聖武天皇は各地に国分寺・国分尼寺を作ります。

その総本山として奈良に東大寺を建てる。

さらに高さ約46m、幅86mの巨大な大仏殿と、その中に高さ約16mの大仏を作る計画を743年

に発表。

その巨大大仏作りのリーダーを任されたのが民衆から絶大な信頼を得ていた僧の行基(ぎょうき)

だ。

751年に大仏殿が完成するが、752年の大仏完成を待たずして行基は亡くなってしまう。

この国の一大事業に関わった人の数約260万人、年数9年、総工費は現在のお金に換算する

と4657億になると言われている。

昨年問題になった2020年東京オリンピック、新国立競技場のザハ氏案のナント倍の建設費だ!!






遣唐使(けんとうし)


年号語呂合わせ

蒸され(630)て海渡る、遣唐使 


この頃の船は屋根が無さそうなので、直射日光を浴び、蒸されるように暑かった、、、とイメージ

しておけばOK。



隋が滅び唐に代わると、その文化や制度を取り入れるために、たびたび遣唐使(けんとうし)を

派遣した。
 
航海や造船の技術が不十分だった為、航海には危険がともない阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

の様に遭難して日本に帰れず、唐で一生を終えた人や、唐の僧・鑑真(がんじん)のように、何

度も航海に失敗し、失明しながらも日本に渡り、唐の進んだ仏教を伝え、唐招提寺(とうしょうだ

いじ)を建てた人もいた。

仏教や大陸の文化等の影響を強く受けたこの時代の国際的な動きを

天平文化(てんぴょうぶんか)と呼ぶ。
 
 
 
万葉集(まんようしゅう)

防人(さきもり)、天皇、農民らが書いた和歌(詩の様な物)を大伴家持(おおとものわかもち)

が編集した日本に現存する最古の和歌集。

約4500首の歌を収めてある。

 
防人(さきもり)とは?

飛鳥時代から平安時代、律令制度下で行われた軍事制度で、唐の進攻を防ぐために九州沿岸

の防衛のため設置された部隊。





 
奈良時代ゆかりの地


奈良時代(平城京)ゆかりの地マップ


自宅マーク
平城宮跡(へいじょうきゅうせき)

場所 奈良県奈良市佐紀町

世界遺産、古都奈良の文化財の1つで今から1300年も前にあった都市の面影を残す奇跡的な

場所です。


710年誕生した平城京は、784年に都が長岡京へ移されるまでの約70年間、日本の首都として

栄えた。

その街並みは794年の平安遷都後に解体されてしまうが、、明治時代に平城宮跡の保存運動が

起こり、1959年より継続的な発掘調査が開始。

現在では、平城宮の正門であった朱雀門、宴が催された東院庭園、2010年には大極殿が復元

され、当時の姿を徐々に取り戻している。

甲子園球場が30個も入る広大なスペースにスポットが点在しているので、下調べして向かうの

をお薦め。 






平城京の中心には南北に朱雀大路と言う道幅70mの道路が走っており、その北端に

平城宮の入口である朱雀門があった。






朱雀門の真北約800mにあるのが「大極殿」。

幅約44m、高さ約27m、平城宮最大の宮殿であり、天皇の即位式や外国使節との面会など、国の

もっとも重要な儀式のために使われていた。