大化の改新(たいかのかいしん)

西暦646年(以前は645年と言われていた)

年号語呂合わせ  645年虫殺しの大化の改新

          蘇我氏を蒸し殺し。(645ろし)

                                   無用(64)の豪族(5)大化の改新 

推古天皇のもと摂政として政治を動かしていた聖徳太子が622年、49歳で死ぬと、蘇我馬子の子

供、蘇我蝦夷(そがのえみし)が政治の実権を握り、推古天皇の死後、田村皇子を舒明天皇として

即位させた。 

推古天皇の時と一緒で、皇位継承者の選定に蘇我氏が絶大な権力を持っていた事が解かる。


さらにその 蘇我蝦夷の子供、蘇我入鹿(そが の いるか)は、次期天皇と言われた聖徳太子の

子供  山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め、一族もろとも自害に追い込み、聖徳太子

の血族を途絶えさせてしまう。


そのやり方には父の蝦夷さえあきれさせたと言う。


この蘇我入鹿、歴史バラエティー「今夜はヒストリー」の「歴史を変えた最強の悪役10人」に選ばれて

いる。


その蘇我入鹿の横暴ぶりに危機感をもった役人の中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)は次期天皇

の有力候補でもある中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と手を組み、百済、新羅、高句麗の使者

が天皇に貢物を届けに来る「三韓の儀」の最中、入鹿が丸腰の所を狙い皇極天皇の目の前で暗殺。

その首は600mも飛んだと言われる。


それを知った入鹿の父、蘇我蝦夷は自宅に火を付け自害(61歳?)。蘇我家は滅ぶ事になる。


中大兄皇子と中臣鎌足はクーデターに成功し、再び天皇中心の政治を推し進める。

それが大化の改新である。※テストに絶対でますよ~※


商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。お買い物される際には、必ず商品ページの情報を確認いただきますようお願いいたします。また商品ページが削除された場合は、「最新の情報が表示できませんでした」と表示されます。


大化の改新後の役職


皇極天皇が退位し、弟の軽皇子(かるのおうじ50歳)が孝徳天皇となる。

中大兄皇子(20歳)が皇太子となる。

中臣鎌足(32歳)が内臣(うちつおみ)となる

蘇我石川麻呂が右大臣、阿倍内麻呂が左大臣になる。

(蘇我石川麻呂は蘇我家のNo2だったが、入鹿暗殺に加担)


大化の改新で行った事

初の元号が出来る。(大化)

豪族が持っていた土地をすべて朝廷(天皇)の物とする。

戸籍を作り、それを元に土地を人民に分け耕作させる。公地公民

地方行政を国別に役人に任せる。

新しい税として租・庸・調(そようちょう)を収める。


出ました租・庸・調  テストに出ますので詳しく説明すると、、、、。


(そ)

収穫量に応じた米を納める。

(よう)

都での労役

調(ちょう)

地域の特産物(織物や魚等)



中大兄皇子は都を近江大津宮(おおみおおつのみや・今の滋賀県)に移すと、そこで第38代天智

天皇(てんちてんのう )となり隋が滅び7世紀になって唐になった隣の大国にならって、律令国家

を目指し天皇中心の政治を推し進めた。


律令政治とは?

律=刑罰 令=政治を行う法律  

大宝律令とは?

大化の改新から始まった律令政治の集大成。

今で言う刑法、民法、行政法?



※動画※ 歴史バラエティー番組 ”大化の改新”






大化の改新ゆかりの地


奈良県明日香村マップ





自宅マーク
甘樫丘(あまかしのおか)



大化の改新の立役者、中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったとされる飛鳥寺から西に見える

小高い丘。

標高150mのこの丘の中腹と麓に、蘇我蝦夷、入鹿親子の大邸宅があったと言われている遺跡

が1994年に発掘された。

入鹿はこの丘から天皇の宮殿をも見下ろし生活していた。



戦マーク
伝 飛鳥板蓋宮跡(でん あすかいたぶきのみやあと)


皇極・斉明天皇の皇居と言われる遺跡。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した場所でもある。

ここから大化の改新が始まった。

ここで切られた入鹿の首は、 600m離れた場所まで飛んでいき、その場所には入鹿を祀った

赤マーク
蘇我入鹿首塚があります。 





白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)


その頃、大国”唐”と”新羅”の連合軍によって滅ぼされた日本と仲が良い”百済”を助ける為朝鮮半島に

兵を送るが大敗。それを663年(天智2年)8月白村江の戦いと言う。


この大敗が、日本をさらに律令国家(中央政権国家)に推し進むきっかけとなる。