飛鳥時代


592年(崇峻天皇5年)~710年(和銅3年)

その時代の日本の人口(推測)

 約500万人

592年、初めての女性天皇となった推古天皇(すいこてんのう)は甥である厩戸皇子(うまやどのみこ)

後の聖徳太子を摂政(せっしょう)に任命した。



聖徳太子は仏教の力で豪族達の争いが続く世の中を平和にしようと、法隆寺を建て、天皇中心の

律令国家(りつりょうこっか)作りの為、数々の憲法を定める。 


飛鳥文化

聖徳太子や蘇我氏は仏教を信仰し、政治の中心地であった飛鳥地方には日本最古の木像

建築である”法隆寺”やその金銅に” 釈迦三尊像”を作った。

この日本最古の仏教文化を飛鳥文化と言う。 




聖徳太子が 行った政策。


603年 冠位十二階(かんいじゅうにかい) 

それまで家系で決まっていた役人の力関係を、個人の能力で上に行けるようにした。

位を12に分け、高い地位には濃い色の冠かぶせ、低くなるにつれ色は薄くなって行く。




604年 十七条の憲法(じゅうななじょうのけんぽう)

役人の心構えを書いた17個の法文

一つ目

和を以て貴しとなす(わをもってとうとしとなす) 「争いをやめ、みんなで協力しなさい」

から始まる日本初の憲法は、礼儀正しくしなさい、とか母親が小さな子供に言うような事ばかり

ですが、天皇服従も織り交ぜています。


しかし決して独裁国家を目指しているのではなく、律令国家として成り立っている隣国の隋や百済の

驚異から一刻も早く国を一つにまとめなければ、、、との思いが伝わってきます。




※動画※ 聖徳太子から学ぶ日本の心
 




中国の脅威にさらされ、憲法改正で揺れている現在の日本と少なからずとも被らないでしょうか?






海の向こうでは隋(ずい現在の中国)がますます力を持ち朝鮮半島等周辺の国をその支配下

に収めます。


600年 実質的に政治を動かしていた聖徳太子(当時35)と蘇我馬子(58位?)はその隋の

支配下に入るのでは無く、対等に外交しようと遣隋使を隋に送ります。



第1回目の遣隋使は、自国(倭国)の事を聞かれ、その内容から隋の初代皇帝文帝に「なんて

遅れた国だ、出直して来い」みたいな感じであきれられてしまい、恥ずかしい思いをして帰ってきます。



聖徳太子は「これではいけない」と中国と対等になる為に603年の冠位十二階や604年の十七条の

憲法で国作りの基礎を固める。


そして607年、満を持して第二回遣隋使を送ります。

そしてその大役を任されたのが、ミスター遣隋使

小野妹子です。

あえてミスターと書いたのは、妹子と言う名前から「小野妹子って女性だっけ?」みたいな勘違い

をしている方が、、、、、、いないかな?



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1回目で隋の皇帝に相手にされなかった聖徳太子ですが、やはりプライドだけは捨てきれず、又も

対等な外交路線で行きます。


妹子に持たせた手紙の内容は砕いて読むと、、、、

「日が昇る国の王様である私が、日が沈む国である王様のあなたに手紙を書きましたよ。調子は

どうだい?」


これは対等と言うより、相手を見下している様にも感じますが、、、。



当時隋の皇帝は第2代目の煬帝(ようだい)で、これがかなり気性の激しい方みたいで、やはり

失礼な手紙に怒りまくり!!


煬帝は手紙の返事を持たせ、そのまま妹子を日本に返します。



しかし帰国後、妹子が言った言葉は、、、「煬帝からの手紙を無くしました」


それも隋は裴世清(はいせいせい)と言う使者を妹子と帰国時に同行させ、倭国を臣下ではなく対

等の「国」と認めた形となりました。


これは聖徳太子の思惑通り、隋は臣下の高句麗と緊張状態にあり、日本迄敵に回す事は無い

、との読んでの事だった。


ちなみに妹子が無くした(途中で盗まれた)煬帝からの手紙は、実は内容があまりにも醜いので

(本気でブチ切れていた)聖徳太子の指示で無くした事にした、、との説有。




大失態を犯したにもにもかかわらず、次の遣隋使にも小野妹子を任命した所があやしい。



※解かりやすい遣隋使の動画(バラエティー番組)※

 




飛鳥時代NOW






古墳マーク石舞台古墳(いしぶたいこふん)
 


蘇我馬子が埋葬されていると言われる古墳。

作った当時は長さ55m位あったそうだが、 上部の盛土が無くなり巨大な石が露出した形となっている。

見学には入場料が必要。(大人で250円)



赤マーク小墾田宮(おはりだのみや)跡

聖徳太子や推古天皇が政治を行った場所とされる宮殿小墾田宮があったとされる場所は2か所有り

現在では雷丘が最有力となっている。


候補①地図赤ポイント右側 雷丘(いかずちのおか)

道路脇に雷丘東方遺跡があり、そこから「小治田宮」とか「小治宮」とかいう文字が書かれた墨書

土器が発見され小墾田宮があった場所として最有力となった。


候補②地図赤ポイント左側 小墾田宮(おはりだのみや)跡

その名の通り、長らく「小墾田宮があった場所」と言われてきた。

田園の中にポツンと「古宮土壇(ふるのみやどだん)」言われる盛り土に1本の木が立っているのが

目印。今では蘇我氏の邸宅跡では無いか?とも推測されている。