黒船来航(くろふねらいこう)
ペリー来航嘉永6年(1853年) 人は込み合う黒船来航 ヤッコさんもビックリ、黒船来航
嘉永6年(1853年)
長い間鎖国状態の日本に、 アメリカ合衆国海軍東インド艦隊の長官 マシュー・ペリー率いる艦
船4隻が江戸湾、浦賀沖(今の横須賀市)にやってきました。
歌とダンスで楽しく”ペリー来航”を覚えよう
踊る授業シリーズ (踊ってみたんすけれども
エグスプロージョン
フューチャリング トレンディエンジェル斎藤
見たこともない黒くて巨大な船(当時日本一と言われた千石船の3倍)に江戸中が震え上がった。
当時、ランプの明かりを灯す油をクジラから取っていたアメリカは、乱獲の為大西洋では取れなく
なっていたクジラを求め、太平洋で捕鯨をするようになった。
その捕鯨船の物資調達の為の拠点として日本に目を付ける。
しかし、その時の日本はオランダ、中国、朝鮮以外の国とは交易をしない鎖国時代。
ペリーは幕府に、最高位の役人に会ってフィルモア大統領からの親書を渡したい、と要求。
応じない場合江戸湾を北上し、兵を率いて上陸すると圧力をかける。
この時第12代将軍徳川家慶(いえよし)は病床に伏せていて、実質政治を動かしていた老中
首座・阿部正弘は、親書を受け取る事に合意。
(ちなみに老中首座は現在の総理大臣並みの重要な地位)
ペリーは1年後に返答を聞きにまた来ると言って琉球に寄って帰って行った。
実は幕府はオランダ経由で、アメリカのペリーが日本に来る情報は1年前から知っていたと言う。
そして1年後のペリー再来日に備え幕府は準備をする。
準備①オランダから軍艦の購入(千石船では歯が立たない)
準備②大砲を設置する人工島”台場”を整備(これが現在のお台場)
準備③各大名にアンケート(開国するか否か)
ちなみにアンケート結果は
鎖国を続ける⇒48.1% 薩摩藩(藩主 島津斉彬)他
開国⇒29.6% 彦根藩(藩主 井伊直弼)他
追い返す⇒14.8% 水戸藩(藩主 徳川斉昭)他
しかしペリーは1年後に来ると言っていたのに半年後の1854年1月14日やってくる。
その間、時の将軍は13代将軍徳川家定(いえさだ)に、、、、
12代将軍家慶(いえよし)は前回ペリーが帰った後、10日後に亡くなったそうである。
今回は、お互いに接待しあい、友好的な 歓迎をする。
ペリーはアメリカから1/4の実際に乗れる蒸気機関車やモールス信号機、リボルバー拳銃等を
プレゼントとして持ってくる。
それを見た日本側は、あまりの技術の違いに驚く。
そしていよいよ200年近い鎖国が解かれ、 1854年3月31日(嘉永7年3月3日)江戸幕府と
アメリカ合衆国の間で日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が締結される。
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