細川ガラシャ

明智 珠(明智 玉)(あけち たま)
永禄6年(1563年)~慶長5年7月17日(1600年8月25日)

戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。

戦国一の美女と言われキリスト教信徒(キリシタン)としても有名である。


父は明智光秀 母 は煕子(ひろこ)  

三女として生まれ玉と名付けられた。

15歳の時に織田信長が媒酌人となり 、丹後の宮津城主 細川藤孝の嫡男 細川忠興(ただおき)

の妻になります。

その後長女・長 長男・ 忠隆(ただたか)が誕生

しかし1582年、父の光秀が本能寺の変で 主君の信長を自害に追い込む。


光秀の謀反をゆるせなかったガラシャの夫、 忠興は「逆賊の娘」として妻を置いとくわけにはいかず

仕方なく京都の山奥に幽閉してしまう。 

玉が絶望の淵で落ち込んでいる時、侍女の勧めでキリスト教と出会う。 

そして玉はキリスト教の洗礼を受け細川ガラシャ となる。


その後忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻し、厳しく監視した(大坂城の近く)


信長の後継者、秀吉も亡くなると、秀吉の重臣、石田光成と徳川家康の仲が悪くなってくる。

光成は家康に従っている 武将達をとりこもうと、大坂城内にいる忠興の妻ガラシャをはじめ

他の妻達も人質にしようとたくらむ。 


石田光成率いる西軍に屋敷を取り囲まれたガラシャは人質になる事を拒否し、 キリストの教えで

自害出来ない為、 家老の小笠原少斎に胸を刺させ、遺体が残らぬ様火薬を巻いて火を付けた。

その後少斎も自害。

ガラシャ38歳であった。




ガラシャが残した辞世
 
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」

散るべき時を知る花のように、人も散るべき時を知るべきである、、と言う意味



 
細川ガラシャの事が良くわかる動画






この出来事がきっかけで、関ヶ原の合戦において、徳川方の東軍に参加する武将が増えたと言う。