立憲政治(りっけんせいじ)
1874年(明治7年) – 1916年(明治16年)あたり議会政治と士族の反乱
イギリスでは、選挙によって国民の意思で成立した議会によって政策の決定や政権交代を
行う政治のしくみが出来上がりつつあった。
明治維新で新しい国作りが始まった日本では、まだ立憲政治(憲法や議会で作る政治)は
行われてなく、土佐藩出身の板垣退助らが主張。1874年(明治7年)板垣らは民選議員設立の
建白書(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)を政府に出す。
西南戦争(せいなんせんそう)
明治維新後、色々な特権を新政府によって奪われた士族たちに不満が広がりました。
民選議員設立の建白書提出者のメンバーでもある江藤新平は1874年(明治7年)地元の佐賀
で征韓論を唱える士族たちを集めて兵をあげその跡各地で士族が反乱を起こしました。
大久保利通が実権を握るようになった政府は士族の反乱に、厳しい態度で臨みこれを鎮めました。
板垣退助 江藤新平らと征韓論を唱え政府を去ることになった西郷隆盛(さいごうたかもり)
は地元鹿児島で私学校を設立。若い世代に「武士の精神」を受け継いでもらおうと指導して
いました。
は地元鹿児島で私学校を設立。若い世代に「武士の精神」を受け継いでもらおうと指導して
いました。
しかし、西郷のこの行動が明治政府から見れば危険分子とされ、誤解や行き違いも招き薩摩の
士族達が西郷を担ぎ明治政府に対して反乱を起こします。
そして1877年 現在の日本で最後の内乱 西南戦争(せいなんせんそう)が勃発します。
2018年の大河ドラマ「西郷どん」のクライマックスになるであろう西南戦争。
幼馴染であり、ともに明治維新で日本を変えた者同士が戦うドラマのクライマックスと
しては最高にドラマティックな戦いである。
1877年 西南戦争
※テストに必ず出ます。
明治政府軍の指揮者 大久保利通


VS
薩摩軍の指揮者 西郷隆盛


最期に西郷隆盛が自決し、日本最後の反乱は鎮められます。
自由民権運動(自由民権運動)
武力での抗議では無く、言論(げんろん)による政府への圧力を高めようと、板垣退助
は高地に立志社(りっししゃ)と言う政治結社を作ります。
中江兆民(なかえちょうみん)らが紹介した自由民権の思想を宣伝して、国会を開く事
を訴えました。

1847年〜1901年 明治時代の思想家。 土佐藩(高知県)の出身。フランス語を学び,岩倉使節団に同行してフランスに留学する。帰国後,ルソーの思想を紹介して自由民権運動に大きな影響をあたえ,「東洋のルソー」とよばれた。第1回衆議院議員選挙に当選して帝国議会議員となるが,民党内の裏切り行為に怒って辞職している。http://ssd.cswiki.jp/index.php%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E5%85%86%E6%B0%91
その活動は自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)として、平民にも広く広まった。
※自由民権運動はテストに必ず出ます。
板垣退助が立志社のあと、各地の政治団体の代表を集めた愛国社(あいこくしゃ)を作り
さらに1880年(明治13年)、国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)となり政府に対して
国会設立の請願運動を行います。
政府はこの自由民権運動を抑えようと、集会条例(しゅうかいじょうれい)を出します。
しかし、政府の中にも立憲政治に前向きな人もいて、大隈重信(おおくましげのぶ)がただ
ちに国会を開こうと言ったり、まだ時期尚早だ、と言う意見で分かれていました。
しかし、1881年(明治14年)に北海道開拓使の施設払い下げ問題がおきて、政府に対する
不満が爆発。大隈重信ら政治非難に関わったとして政府から追放し、そのかわり10年後に
国会を開くとして国民の非難をかわします。
とりあえず10年後に国会が開かれるのを見据えて、板垣退助は自由党(じゆうとう)
大隈らも立憲改進党(りっけんかいしんとう)を作ります。
しかし、その後不景気となり、市民は生活難になり、各政治団体は資金集めが出来なく
なります。一部の自由党民は生活に困った農民とともに反乱を起こし秩父事件(ちちぶじけん)
に発展。政府はこれを弾圧します。
自由党は解散し、立憲改進党も大隈が党を離れました。
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