明治維新(明治維新)

1868年 – 1912年
武士が支配していた幕府が廃止され、天皇を中心とする新しい政府(王政復古)が作られた。

元号を明治と改め、公家、薩摩、長州の有力大名を中心に、全国から有能な人材が集まった。

1963年、天皇が神に誓うと言う形ででした新政府の基本方針「五箇条の御誓文」を発布した。

天皇の移行

120代 仁孝天皇 にんこう 1817年
121代 孝明天皇 こうめい 1846年  35歳で逝去。
122代 明治天皇 めいじ  1867年  (1868年五箇条の御誓文、1871年廃藩置県)
123代 大正天皇 たいしょう 1912年
124代 昭和天皇 しょうわ 1926年
125代 今上天皇(平成)きんじょう 1989年 (現役の天皇はすべて今上天皇と呼ぶ)


五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)は定期テストはもちろん、入試でも出る。

問題例

Q 明治政府の基本方針を五つにわたり示したものは?


gokajo
画像出典 http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html

首都として江戸を東京と改め、天皇も1000年間都だった京都から、新しい都へ移った。

このペリー来航から明治新政府に移るまでの改革を明治維新と言う。

明治維新を簡単に説明鎖国をしながら長らく平和な時代だった江戸徳川幕府だったが、ペリー来航にビビりまくる。そんな幕府に日本をまかせられない、と仲が悪かった薩摩藩と長州藩が手を組み幕府を倒し、天皇に日本をお返ししますよ、と言う一連の流れ。



廃藩置県(はいはんちけん)

江戸時代までは、大名(藩主)が独立した一個の国の領主という立場でした。(播磨の国

とか加賀の国とか)それが寄り集まって連邦制を採り、徳川家が代表として日本全体の

舵取りを行っているという仕組みでした。

明治維新後、「西欧列強に対抗するには各藩がバラバラではいかん。天皇を中心にして一本

化した国家にならなければならん」ということになって、各藩の藩主から領国を統治する権

限を取り上げるということを行い始めます。


まず1869年に大名に命じてその土地(版)と人民(籍)を天皇に返上させます。(版籍奉還)

新政府は内乱を恐れて、大名の所有権や統治権はそのまま引き継がれました。

しかし、中央政府の支配力をさらに高めるためすべての藩を廃止して県とします。これを

藩置県
(はいはんちけん)と言います。


版籍奉還と廃藩置県は定期テストと試験にも出ます。

問題例

Q 1869年、大名の(土地)を(人民)を天皇に返上する事を何というか?

  (カッコ内のどちらかが空白になっているパターンもある。

Q 1871年、明治政府が藩を廃止して、府や県を置いた改革は?



学校へ行こうB RAPハイスクール Co 慶応「新しい社会」③幕末・明治維新編

なつかしい~ このDJ Co 慶応のラップは当時受験勉強に役に立つと話題になりました。




国民の平等

欧米列強に勝つには、政治制度だけではなく国民の一致団結が必要だと考えた明治政府は、

江戸時代の身分制度を廃止して、以下に変更。

大名・公家=華族(かぞく)

武士=士族(しぞく)

百姓・町民=平民(へいみん) 

さらに「えた・ひにん」と差別されていた人々を平民とした。賤民廃止令(せんみんはいしれい)

さらに武士のみなれた軍人に平民も軍人になれるようにし、20歳以上の健康な男子は

抽選で3年間兵役を課した。徴兵令(ちょうへいれい)と言う。

徴兵令は試験に出ます。

政府は武士に対する特権を廃止。特に武士の誇りである刀をさす事も禁止した。

廃刀令(はいとうれい)


残された差別

明治になってだいぶ改善されたが、「えた・ひにん」と言われる人々は差別され続け肩身の

せまい思いをしてきた。それは同和問題として現在も問題解決に向けての取り組みが行われ

ている。



経済制度の改革


富国強兵(ふこくきょうへい)

必ずでます。ぜったい憶えてね!!

国を豊かにし、欧米の国に負けない国にしよう!!と言う明治初期に政府が掲げたスローガン

その為に経済的な政策を打ち出します。

改革1 地租改正(ちそかいせい)

今まで年貢(米)で税を納めていたが現金に変更。金額も収穫量では無く農地の所有権(地券

を与え、その評価額で査定した。これにより豊作・不作でばらつきがあった米よりも安定

した税金が入ってくるようになり、予算も立てやすくなった。

この地租改正も最重要キーワードです。


改革2 通貨・金融の制度

今まで複雑だった貨幣を・銭(せん)・厘(りん)の3つに統一

銀行や株式会社の制度も作り、それを管理する日本銀行を設けた。


改革3 殖産興業(しょくさんこうぎょう) 

殖産興業を簡単に言うと「殖産しょくさん」とは、「産業を移植する」ことで、簡単に言うと、欧米の先進技術を日本に取り入れることです。「興業」は字の通り、「産業を興す」ことで、産業を発展させることです。なので、外国の技術を取り入れて日本の産業を活発にしよう、ということです。代表例が富岡製糸場などの官営模範工場や、お雇い外国人です。出典 ヤフー知恵袋 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11186080416?__ysp=5q6W55Sj6IiI5qWtIOewoeWNmOOBqw%3D%3D

殖産興業は試験に出ます。最近世界遺産登録で話題になった富岡製糸場は殖産興業政策に

よる日本初の官営模範工場です。見学に行ってみよう!!



文明開化と教育

政府の改革や政策だけでなく、一般の人々が西洋文化に興味を持つようになった。

それを文明開化(ぶんめいかいか)と言う。 テストによくでます。

その以前から欧米の学問を日本に取り入れようと努力してきた洋学者が注目されはじめる。

その代表が福沢諭吉(ふくざわゆきち)である。


すべての児童を小学校で学ばせる学制(がくせい)を定めた。


西洋にならって太陽暦(たいようれき)も取り入れた。




国際関係

政府は、江戸時代までの鎖国とは逆に開国和親の方針(かいこくわしんのほうしん)を

掲げた。要するに外国ともフレンドリーに行こう!と言う方針である。

その外国を色々見て回ろうと岩倉使節団(いわくらしせつだん)を結成。

明治4年(1871)に派遣された。

岩倉使節団メンバー

大使(リーダー)岩倉具視(いわくらともみ)

他副使 木戸孝允(きどたかよし) 大久保利通(おおくぼとしみち)
    伊藤博文(いとうひろぶみ) 山口尚芳(やまぐちなおよし)

そうそうたるメンバーである。大久保利通は大河ドラマ「西郷どん」で瑛太演じる西郷隆盛

の幼馴染だ。

アジアの隣国との関係

1871年 清(しん 今の中国)と対等な条約を結んだ 日清修好条規(にっしんしゅうこ

うじょうき)


明治政府の主要メンバーである西郷隆盛や板垣退助は、元武士である士族の支持を受け征韓論

(せいかんろん )
を主張。国の力を示すため朝鮮に出兵しようと言うものだ。

しかし海外遠征から帰って来た岩倉、大久保、木戸らに国内の体制を先に整えてからと、その

主張をしりぞかれる。これに抗議した西郷・板垣らは辞職、それぞれの故郷へ帰る。

しかし征韓論で盛り上がった士族の不満はおさまらず、政府は台湾に出兵する。

さらに朝鮮の江華島付近で測量をしていた日本の軍艦が砲撃を受けた事件を機に、1876

年朝鮮に不利な日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)を結ぶ。




北海道と沖縄

明治2年(1869年)明治政府はまだ未開拓だった蝦夷地を北海道を改め、開拓史と言う官庁

を置いて開発に乗り出した。

1875年ロシアと樺太・千島交換条約(からふと・ちしまこうかんじょうやく)を結び、

樺太をロシア、千島全体を日本のものとした。

明治5年には日本の清朝の両方に属していた琉球王国を琉球藩とし、1879年に沖縄県とした。